2023/5/13
現在、むあ文庫の運営者である私ですが、学生時代は芸術大学と大学院で彫刻を学び、その後数年間大学で彫刻の授業を受け持っていたこともあって、作品を見るように絵本を見ている、と思う時があります。美術作品の中でも絵画のような平面としてではなく、彫刻のような立体物として一冊の絵本を見た時、いつもとは少し違う視点で本を楽しむことができると思います。
本はその構造上、入り口となる表紙があり、見返し、ページ、そして裏表紙で本が終わります。多くの絵本が、本のそういった構造に、物語内の時間の流れや主人公の変化する心情を重ね合わせるように描いているように思います。例えば、有名な「かいじゅうたちのいるところ」モーリス・センダック/作は、右開きの本なので、右ページを繰って読んでいくのですが、主人公のマックスが冒険へ出発し、船で航海しながら進むときは、本を開く方向と同じ右に向かって進んでいく船が描かれています。対して、家へ帰るときは、元来た道、今度は左に向かって進む船が描かれています。本をめくっていく方向と、冒険へと出発する方向とが同じ方向に向いていることで体感的に、家を出る、家に帰る、という行為が理解できるようになっているように思います。
絵本はまた、読むときにページを繰る行為を伴いますが、次のページをめくらないことによって、時間を操ることもできます。「ぼくは川のように話す」ジョーダン・スコット/作シドニー・スミス/絵では、物語終盤のクライマックスである主人公の父の言葉が書かれたページだけが観音開きになっていて、開けるとページの大きさが2倍になります。ページを手で開く際に時間の間ができ、そして2倍の大きさのページいっぱいに描かれた絵と、父の言葉が一行。予想外に変化する大きさの絵と、時間を一瞬止めることになる観音開きの仕掛けという、物質的な工夫が表現の一部として考えられているように思います。
現代の彫刻作品において、使用される素材やその色、形には必ず作者の意図があって、表現の重要な一部として捉えられています。
「雪がふっている」レミー・シャーリップ/作という本には、絵が描かれておらず、その代わりに白紙のページそのものを雪や白いクジラ、ミルクなどに例えて想像の世界へと誘う言葉が各ページに一行ずつ書かれています。このように、白い紙そのものを物語の一部とするならば、読者が手のひらに載せているのは、白い本ではなく、雪そのもの、ということになります。もう一冊、「あたらしいおふとん」アン・ジョナス/作という本では、表紙に布団にもぐろうとする女の子の絵、そして見返し部分には布団の裏生地の模様が描かれています。本全体が、女の子がもぐる布団そのもののように表現されていて、本文のページがまるでその布団の中で見た夢の物語のように思えてくるのです。
本、それ自体をひとつの物質として捉え、物語の重要な一部として表現するのは、絵本特有のことと言えるかもしれません。物語によって本そのものの大きさや紙の厚みや仕掛けを変えていく絵本、物質としての必然性を伴うこの表現媒体は、電子書籍といったデータに置き換えることはできない、「物」としての存在理由が明白であると言えるでしょう。だからこそ、絵本を「物」として見る楽しみをこれからももっともっと見つけていきたいと思っています。