むあ文庫は8周年です。

2025/5

 再び「海のしろうま」(山下明生・作/長新太・絵)について。 (むあ文庫通信vo.l5でも「海のしろうま」について書いています。)
 改めてこの物語の根底には主人公「ぼく」の父親の不在が大きく横たわっているように思うのです。「死」は当たり前のように誰の元にもやってきます。2011年3月に起きた東日本大震災、テレビ画面越しにたくさんの物や家や人が一瞬のうちに流される光景を見て、計らずも生き、計らずも死ぬことを痛感しました。同じ年、ポーランドにある第二次大戦中に建てられたユダヤ人強制収容所を訪れた際、山のように積まれた靴、眼鏡、鍋を見てまたそう思いました。脱走者が一人出る度に無差別に選ばれた10人が銃殺されたという話を聞いても、また。「海のしろうま」を初めて読んだのはそんな時でした。物語の最後で「じいちゃん」が 「ぼく」の口に押し込んだもぎたてのイチジクは、当時の私にとっては「今日、生きていること」と同じことに思えました。
 今年の始め、突然の余命宣告であっという間に逝ってしまわれたお客さまがいました。今日この時間、出会う何かもあれば逃げていってしまう何かもある。今日これきりという気持ちでむあ文庫を開けつづけていきたいと思っています。


 「音楽の力」が一番嫌いな言葉だと、音楽家の坂本龍一さんが生前答えている新聞記事を今でも大切に持っています。「音楽の力」に限らず「スポーツの力」もそう、例えば「勇気を与えたい」と言う子どもを見ると悲しくなると記事にはありますが、それを「本の力」と言い換えることもできると思います。本には絶対的に癒やしの力があると信じて、本を使って、本にメッセージを込めて、というように、利用するために本が在るのではないと私は思います。
 今もつづく戦争。戦時中においては、生きること死ぬことに「意味」が付与されます。「ユダヤ人だから殺す」「祖国のために死ぬ」「尊い犠牲のおかげで今の平和がある」などと言って。生きること、死ぬことに他人から意味を与えられることと、本には利用するだけの理由があり価値がある、だからこそ力がある、と言うこととは似ているような気がします。
 「海のしろうま」の最後、「じいちゃん」が口に押し込んだもぎたてのイチジクを味わうように、本をただただ味わえたら、と思います。