現象と物語

 2021/9/25新聞掲載

 店のカウンターの上に小さな兎の置物があります。手にはお盆を持っていて、その上にショップカードが載っています。毎週土曜の朝、その兎が客席側へ向くよう位置を正します。毎週毎週、その兎の向きを直します。ある時ふと、「なぜ毎週、位置を正さねばならないのだろう?」と気づきました。考えてみると客席側へと向けた兎は、翌週になると右回りにほぼ90度真横を向いているのでした。兎が動いているのです。自分の考えの及ばない現象に出くわし、きっと根拠があるとは分かっていても、怖い気持ちがある一方で何かを期待する気持ちもあってドキドキしてきました。理由を探ってみると、何てことはない、カウンターにわずかに接している冷蔵庫の振動が伝わり、一週間かけて少しずつ兎が90度回転していたのでした。
 晴れた日の午後3時ごろになると、店の大きなガラス窓に描いた文庫の絵が投影されて、壁にもうひとつの文庫が浮かび上がっているのを発見しました。絵がもう一つ増えたようで少し嬉しくなりました。

 なぜ、そんなことが起こるのか、なぜそんな色や形をしているのか、不思議に思うことはたくさんあります。納得いく答えを得られるときもあれば、それでも消えない不思議もあります。不思議の先にある答えはいずれ、人それぞれの物語となっていくのかもしれません。壮大でもなく大団円を迎えることもなく、取るに足りない小さな物語の集積のような日々。私自身も、この場所も、小さな現象の一つのように、物語を紡いでいけたら、と思うのです。

◆ 2021年4月から毎月、某新聞紙において連載中のエッセイです。
むあ文庫をご存じない読者を想定した自己紹介的な目的もありますので、過去のブログの内容と重なる部分もあります。